ゴゴゴゴ……。
森の奥から響いた重い音が、ゆっくりと消えていった。
ガルドとセリナは、しばらくその場から動かなかった。
風が木々を揺らす音。
遠くで鳴く鳥の声。
それ以外には、何も聞こえない。
「……今の音、何だったのかしら」
セリナが小さくつぶやいた。
「でかい魔物が歩いてる音じゃないか?」
「それは分かってるわよ。でも、あれだけ地面が揺れるなんて普通じゃないわ」
「じゃあ、ものすごくでかい魔物ってことだな!」
「……ガルドって、考え方が単純よね」
「そうか?」
ガルドは首をかしげた。
巨大な魔物がいるなら、倒せばいい。
もちろん、危険な相手なら無理はしないつもりだ。
ただ、どれほど大きな魔物なのかは気になっていた。
それに、もし倒せる相手なら――。
「肉も、でかいのかな」
「そこなの!?」
セリナの声が森に響いた。
ガルドは不思議そうな顔をする。
「いや、でかい魔物なら肉もたくさん取れるだろ?」
「まだ食べられる魔物かどうかも分からないでしょう!」
「それもそうだな……」
ガルドは少し残念そうにうなずいた。
セリナは深く息を吐いた。
この男と一緒にいると、緊張感を保つのが難しい。
それでも、不思議と不安ばかりではなかった。
ガルドは無茶をすることもあるが、仲間の言葉には意外と素直に耳を傾ける。
危険を感じたら引き返す。
その約束さえ守ってくれれば、調査を続けることはできるはずだ。
「とにかく、音の正体を確かめましょう。ただし、姿を見つけても不用意に近づかないこと。いい?」
「ああ、分かった!」
二人は再び歩き始めた。
森の奥へ進むにつれて、地面の様子が変わってきた。
柔らかい土には、深いくぼみがいくつも残っている。
太い木の幹には、何かがぶつかったような傷があった。
中には、根元から折れて倒れている木もある。
「……やっぱり、普通じゃないわね」
セリナは倒木を調べながら言った。
「魔物同士が争った跡かしら?」
「そうかもしれないな」
ガルドは折れた木の断面を見つめた。
かなり太い木だ。
大人が何人も腕を回して、ようやく届くかどうかという大きさだった。
それが、途中から無理やりへし折られている。
「すごい力だな」
「ええ。普通の魔物が暴れただけとは思えないわ」
セリナは周囲を見渡した。
木々の間には、いくつもの痕跡が続いている。
ただし、それらは一方向にまとまっているわけではなかった。
あるものは森の奥へ。
別のものは、南側へ。
さらに、少し離れた場所には、東の山地へ向かう足跡も残っていた。
「この跡……」
セリナは地面にしゃがみ込んだ。
「どうした?」
「魔物が逃げているだけじゃないのかもしれない」
「どういうことだ?」
「ほら、こっちの足跡を見て」
セリナが指さしたのは、木々の間に残された複数の足跡だった。
大きな足跡の周囲に、小さな足跡がいくつも重なっている。
「大型の魔物が通ったあとに、小さな魔物が続いているでしょう?」
「ああ」
「でも、こっちは違う。大きな足跡が先に進んでいるのに、小さな足跡は途中で引き返しているの」
ガルドはじっと地面を見た。
確かに、足跡の向きが途中で変わっている。
「つまり、何かを追いかけてるってことか?」
「可能性はあるわ。だけど、逆に何かから逃げている可能性もある」
「うーん……難しいな」
「ええ。だから、もっと情報が必要なのよ」
セリナは立ち上がった。
今のところ、はっきりしたことは分からない。
ただ、魔物たちが一斉に移動しているだけでは説明できない痕跡が、森のあちこちに残されている。
この森では、何かが起きている。
それだけは間違いなさそうだった。
さらに進むと、二人は小さな沢にたどり着いた。
透明な水が岩の間を流れ、木漏れ日を受けてきらきらと輝いている。
その光景を見て、ガルドの表情が明るくなった。
「おっ、水だ!」
「水があるだけで、そんなにうれしいの?」
「歩いたら喉が渇くだろ?」
「それはそうだけど……」
ガルドは背負っていた水筒を取り出し、沢の水を飲んだ。
「うまい!」
「水に味の違いなんてあるの?」
「あるぞ。冷たいし、うまい!」
「それは冷たいからじゃないの?」
セリナは笑いながら、自分の水筒にも水を補充した。
そのときだった。
ガルドが、ふと沢の向こう側を見つめた。
「……ん?」
「どうしたの?」
「あそこ、何かあるぞ」
沢の向こうには、岩が積み重なった場所があった。
その隙間に、何か黒いものが挟まっている。
ガルドが近づこうとすると、セリナが手で制した。
「待って。先に周囲を確認するわ」
セリナは弓を構え、岩場の周囲に魔物の気配がないか探った。
しばらくしてから、ゆっくりと前へ進む。
黒いものは、岩の隙間に引っかかった硬い鱗だった。
大きさは、ガルドの手のひらほどもある。
表面には鈍い光沢があり、端の部分は鋭く尖っていた。
「……これ、何かしら?」
セリナは慎重に鱗を観察した。
「魔物の鱗か?」
「たぶんね。でも、こんなに大きな鱗は見たことがないわ」
セリナは布を取り出すと、鱗を傷つけないように包んだ。
森の奥で見つかった、大型の魔物が通ったような痕跡。
そして、地面を揺らすほどの重い音。
この鱗も、それらと関係しているのだろうか。
「ギルドに持ち帰って、詳しい人に見てもらいましょう」
二人はうなずき合った、その直後。
ガルドが岩場の奥をのぞき込んだ。
「なあ、こっちにも何かあるぞ」
「だから、勝手に動かないでって……!」
セリナは慌ててガルドのそばへ向かった。
岩場の奥には、地面が大きく削れた跡があった。
まるで巨大な何かが、そこに身体をこすりつけたような跡だ。
さらに、その近くには太い枝が折れて散らばっていた。
「……この大きさ」
セリナの顔が険しくなる。
「かなり大型の魔物が通ったみたいね」
「さっきの音を立てたやつか?」
「分からない。でも、関係がある可能性は高そうだわ」
そのとき、ガルドが岩場の向こうを指さした。
「あっちに道が続いてるぞ」
岩の隙間を抜けた先に、細い獣道が伸びていた。
その道は、森のさらに奥へと続いている。
ただし、周囲には倒木が多く、地面も荒れていた。
進むのは簡単ではなさそうだった。
セリナはしばらく考えたあと、首を横に振った。
「今日は、ここまでにしましょう」
「えっ、もう行かないのか?」
「これ以上進むと、戻る時間が遅くなるわ。それに、相手の正体も分からない。今は見つけた痕跡を持ち帰ることが大切よ」
ガルドは少しだけ残念そうだったが、素直にうなずいた。
「よし。じゃあ、帰ろう!」
そして、すぐに笑顔になった。
「町に戻ったら、昼飯だな!」
「まだお昼のことを考えていたの!?」
「腹が減ったからな!」
セリナはもう何も言わず、笑うしかなかった。
森を出るころには、太陽が少し傾き始めていた。
二人は街道へ戻り、町へ向かって歩いていた。
セリナの荷物には、見つけた鱗が大切にしまわれている。
これをギルドに持ち帰れば、何か分かるかもしれない。
少なくとも、ただの魔物の争いではない可能性が高まった。
「なあ、セリナ」
「何?」
「もし、ものすごく強い魔物が森にいるんだとしたら、どうする?」
セリナは少し考えた。
「まずは正体を調べるわ。それから、倒せる相手なのかを判断する」
「なるほどな」
「ガルドも、相手を見ただけで飛びかかったりしないでね」
「もちろん」
ガルドは笑顔で答えた。
セリナは疑わしそうに目を細めた。
「……本当に?」
「たぶん!」
「たぶんじゃ駄目でしょう!」
二人の声が、夕暮れの街道に響いた。
そのとき、ガルドはふと足を止めた。
「……あれ?」
「今度は何?」
「森の奥から聞こえた音、覚えてるか?」
「ええ。地面が揺れた音でしょう?」
「ああ。あれ、ずっと奥から聞こえたよな」
「そうね」
ガルドは背後の森を振り返った。
「でも、今日見つけた跡は、森の入り口に近いところにもあった」
セリナの表情が変わった。
ガルドの言うとおりだった。
あの巨大な何かが森の奥にいるのなら、どうして入り口に近い場所にも痕跡が残っているのか。
単に森の中を移動しているだけなのか。
それとも――。
「……まだ、何か見落としているのかもしれないわね」
セリナは森を見つめた。
北の森の異変は、思っていたよりも複雑なのかもしれない。
二人はそのまま町へ戻り、見つけた鱗と調査結果をギルドに報告することにした。
次に森へ向かうときは、さらに詳しい準備が必要になるだろう。
そして、森の奥では今日もまた、重い何かが動く音が響いていた。
ゴゴゴゴ……。
その音は、二人が去ったあとも、しばらく森の中に残っていた。
コメント