リンド村を出発してから、しばらく。
ガルドとセリナは、町へ続く街道を歩いていた。
「いやあ、いい村だったな!」
ガルドは満足そうに腹をさすった。
「カブと肉の煮込み、また食べたいぞ!」
「すっかり気に入ったわね」
「おう! あのカブ、甘かったよな。肉も柔らかかったし、あの味付けもよかった!」
「はいはい。次に村へ行ったら、また食べさせてもらいましょう」
セリナは笑いながら答えた。
村人たちに感謝され、うまい料理まで食べられた。
ガルドにとっては、文句のつけようがない一日だった。
ただし、セリナの頭には、村を出る直前に聞いた話が残っていた。
北の丘で聞こえる奇妙な音。
夜になると地面が揺れること。
そして、猟師が見つけた見慣れない魔物の足跡。
「ねえ、ガルド」
「ん?」
「マルコさんの話、気になるわね」
「ああ。北の丘のことか?」
「ええ。最近の魔物の異常行動と関係があるかもしれない」
ガルドは街道の北側へ目を向けた。
遠くには、なだらかな丘が連なっている。
草原と雑木林が広がる、どこにでもありそうな景色だ。
「ちょっと見に行ってみるか?」
「今から?」
「気になるだろ?」
「気になるけど、もう夕暮れに近いわ。何がいるか分からない場所を、暗くなってから調べるのは危険よ」
「……それもそうだな」
ガルドは素直に頷いた。
以前なら、気になった場所へそのまま突っ込んでいたかもしれない。
しかし、今はセリナと一緒に依頼をこなすようになり、少しずつ周囲を確認することも覚えてきた。
もっとも、腹が減るとそのあたりが怪しくなるのだが。
「じゃあ、今日は町に戻って報告。それから明日、改めて調べよう!」
「そうね。それがいいわ」
二人は再び街道を歩き始めた。
その直後だった。
――ゴゴゴゴ……。
地面の奥から、低い音が響いた。
二人の足が止まる。
「……今の音」
セリナが北の丘を振り返った。
草原の向こうで、鳥の群れが一斉に飛び立っている。
風はほとんど吹いていない。
それなのに、丘の斜面に生えた木々が大きく揺れていた。
「地震か?」
ガルドが呟く。
「いいえ……地面そのものが揺れたというより、何か大きなものが動いたような……」
セリナは目を細めた。
そして、丘の中腹にある雑木林を指さした。
「あそこ!」
木々の間を、何かが横切った。
灰色の影。
しかも、一つではない。
小さな影がいくつも走り抜け、その後ろから、ひときわ大きな影が姿を現した。
大きな影が動くたび、木々が揺れている。
「……魔物か」
ガルドの表情が引き締まった。
「どうする?」
セリナは少し考えたあと、街道脇に置かれた岩を確認した。
「まずは近くまで行って、様子を見ましょう。ただし、相手が強そうなら無理はしないこと。戦うとしても、街道から離れた場所でね」
「分かった!」
こうして二人は、街道を外れ、北の丘へ向かった。
丘の麓にたどり着くと、異変はすぐに見つかった。
地面に、無数の足跡が残されていたのだ。
小さなものから、大人の人間よりも大きなものまである。
草は踏み倒され、細い木の幹には新しい傷がついていた。
「かなりの数が通ったみたいね……」
セリナがしゃがみ込み、足跡を確認する。
「この小さい足跡は、さっき街道で出てきたグラスファングに似ているわ。でも、こっちの大きな足跡は違う」
「でかいな!」
ガルドは大きな足跡の横に自分の靴を並べた。
足跡は、ガルドの靴がすっぽり入ってしまいそうなほど大きい。
「これだけ大きいと、かなり体重がありそうね」
「強そうだな!」
「楽しそうに言わないの!」
「いや、だって強い相手なら、戦ってみたくなるだろ?」
「気持ちは分かるけど、今回は調査よ!」
セリナが釘を刺す。
ガルドは少し残念そうにしながらも、頷いた。
二人は足跡を追って、丘の斜面を登っていった。
やがて、雑木林の中に開けた場所が見えてきた。
そこには、根元から折れた木が何本も転がっていた。
地面には深い溝が走り、大きな岩の一つが横倒しになっている。
「これは……」
セリナの顔から笑みが消えた。
ただの魔物が暴れただけとは思えない。
何かが、この場所で激しく動き回ったようだった。
「ガルド、あれを見て」
彼女が指さした先には、岩肌が露出した斜面があった。
その岩には、何本もの深い傷が刻まれている。
鋭い爪で引っかいたような傷。
しかも、かなり高い位置にまで続いていた。
「大きな魔物の爪痕か?」
「そうかもしれない。でも、こんなに深く岩を削るなんて……」
セリナが言いかけた、そのとき。
――ドンッ!
突然、地面が揺れた。
足元の小石が跳ね、木々の葉がざわめく。
「うおっ!?」
ガルドが体勢を立て直す。
「近いわ!」
セリナが弓を構えた。
直後、雑木林の奥から、何かが木を押し倒す音が響いた。
バキバキバキッ!
一本の木が大きく傾き、地面へ倒れ込む。
その向こうから現れたのは、巨大な魔物だった。
灰色の体毛。
太い四本の脚。
頭部には、左右に湾曲した二本の角が生えている。
体格は、以前戦ったブラウンホーンよりも大きい。
肩の高さだけでも、人間の背丈を大きく超えていた。
「でかっ……!」
ガルドが思わず声を上げた。
魔物は二人を見つけると、低い唸り声を上げた。
その足元では、小型の魔物たちが慌てて逃げていく。
どうやら、この巨大な魔物から逃げてきたらしい。
「やっぱり、何かに追われていたのね……!」
セリナが呟いた。
巨大な魔物は前脚で地面を掻き、頭を低くした。
その角が、二人へ向けられる。
「来るわ!」
「おう!」
次の瞬間、巨大な魔物が突進してきた。
ドドドドドッ!
大地を揺らしながら、巨大な魔物が迫る。
正面から受け止めれば、ガルドでも簡単には済まないだろう。
「セリナ、右へ!」
「分かった!」
二人は左右へ分かれた。
魔物はそのまま突進し、二人が立っていた場所を通り過ぎる。
角が岩にぶつかり、激しい音が響いた。
岩の表面が砕け、破片が周囲へ飛び散る。
「岩まで壊すのかよ!」
「感心している場合じゃないわ!」
セリナはすかさず弓を引いた。
放たれた矢が魔物の前脚近くへ飛ぶ。
矢は硬い毛並みに弾かれたものの、魔物の注意を引くことには成功した。
魔物がセリナへ顔を向ける。
その隙に、ガルドが側面へ回り込んだ。
「よし、今だ!」
大剣を振り抜く。
刃は魔物の肩口を捉えた。
しかし、硬い毛と筋肉に阻まれ、思ったほど深くは入らない。
「おお、硬いな!」
魔物が大きく体を振る。
ガルドはすぐに距離を取った。
次の瞬間、太い前脚が地面を叩く。
土が跳ね上がり、ガルドの足元が崩れた。
「うおっ!」
ガルドは後ろへ飛び退き、体勢を立て直した。
「ガルド! 正面からの攻撃は通りにくいわ!」
「分かった! じゃあ、別のところを狙う!」
ガルドは大剣を握り直した。
その様子を見て、セリナは魔物の動きを観察する。
巨体のわりに動きは速い。
だが、突進した直後には、必ず体勢を整えるためのわずかな隙が生まれている。
「ガルド! 次に突進してきたら、私が足元を狙うわ!」
「おう!」
「あなたは、横へ回り込んで!」
「任せろ!」
魔物が再び頭を低くした。
地面を掻く前脚。
大きく揺れる二本の角。
そして、猛烈な勢いで迫る巨体。
「今よ!」
セリナが矢を放つ。
矢は魔物の前脚の近くへ突き刺さり、わずかに進路を乱した。
その瞬間、ガルドは正面から飛び退くのではなく、魔物の進路に対して斜めに踏み込んだ。
巨大な体が通り過ぎる。
ガルドはその横へ回り込み、両手で大剣を振り上げた。
「これならどうだ!」
下から上へ、豪快な一撃。
大剣が魔物の胴体を捉えた。
巨体が大きく浮き上がり、数メートル先へと吹き飛ばされる。
地面に着地した魔物は、勢い余って草地を滑った。
土煙が舞い上がる。
「……すごい」
セリナは思わず呟いた。
あれほどの巨体を吹き飛ばすなんて。
普通の冒険者なら、何人がかりでも難しいだろう。
しかし、ガルドは大剣を肩に担ぎ直し、魔物を見つめていた。
「よし! 今のは効いたみたいだな!」
魔物はすぐには起き上がらなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がろうとしたものの、足元がふらつく。
しばらく二人を睨みつけていたが、やがて低く唸ると、雑木林の奥へと退いていった。
倒すことはできなかった。
けれど、追い払うことには成功したようだ。
「追わないわよ、ガルド」
「分かってる!」
ガルドは大剣を背負い直した。
「……ちょっとだけ、追いかけたかったけどな」
「聞こえてるわよ!」
魔物が去ったあと、二人は周囲を確認した。
倒れた木。
砕けた岩。
深くえぐれた地面。
そして、魔物が現れた場所から奥へ続く、大きな足跡。
「さっきの魔物、何かから逃げていたのかしら……」
セリナが呟いた。
「小さい魔物たちも、あいつから逃げていたんだろ?」
「そう見えたわ。でも、あの魔物自身も、何かに追われていた可能性はある」
セリナは足跡を見つめた。
巨大な魔物が現れた方向。
そこには、古い岩場が広がっていた。
岩肌には、以前見つけたものとよく似た、深い引っかき傷が残っている。
「……あの傷」
セリナが近づき、岩を確認した。
「前に見つけた黒い鱗のこと、覚えてる?」
「ああ。ギルドで鑑定してもらったやつだな」
「ええ。あの鱗の持ち主が、何か関係しているのかもしれない」
ガルドも岩場を見渡した。
しかし、黒い鱗を持つ巨大な魔物の姿は見当たらない。
代わりに、岩場の奥から、かすかな音が聞こえてきた。
――ゴゴゴゴ……。
二人は顔を見合わせた。
地鳴りのような音。
遠くから響いているようにも、地面の下から聞こえているようにも感じられる。
「……今日はここまでね」
セリナが言った。
「これ以上進むのは危険だわ。さっきの魔物だけでも、十分な情報が得られたもの」
「そうだな!」
ガルドは素直に頷いた。
今度は、無理に先へ進もうとはしなかった。
二人は足跡や岩の傷を確認できる範囲で記録し、来た道を引き返した。
丘を下りる途中、ガルドがふと口を開いた。
「なあ、セリナ」
「何?」
「あの魔物、肉はうまいのかな?」
「……そこに戻るの?」
「だって、あんなに大きかったんだぞ!」
「食べる前に、まず正体を調べなさい!」
「分かった!」
ガルドは元気よく返事をした。
その返事が本当に分かっているのかどうかは、セリナにも怪しかった。
それでも、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。
二人は夕暮れの街道へ戻った。
だが、彼らが立ち去った丘の奥では、再び低い地鳴りが響いていた。
そして、岩場のさらに向こう。
黒い鱗に覆われた巨大な影が、ゆっくりと頭を持ち上げた。
その視線の先には、ガルドたちが戦った灰色の魔物が残した足跡が続いていた。
巨大な影は、しばらくその跡を見つめていた。
やがて、低い唸り声が岩場に響く。
――まだ、何かが起きようとしている。
そのことを知る者は、まだ誰もいなかった。
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