古い岩壁を離れたガルドとセリナは、東の山道を街へ向かって歩いていた。
今日の調査で分かったことは多い。
見たことのない巨大な魔物。岩壁に残された無数の傷。そして、その向こうから聞こえた不気味な音。
どれも気になることばかりだったが、今すぐ確かめられるものではなかった。
「うーん……」
セリナは歩きながら、手帳に目を落とした。
「どうしたんだ?」
「今日見た魔物のことを考えていたの。あの魔物、どうして岩壁の近くにいたのかしら」
「何か食べるものでも探してたんじゃないか?」
「……あなたと一緒にしないでくれる?」
「俺だって、食べ物以外のものを探すことはあるぞ!」
「例えば?」
「強そうな魔物とか!」
「それ、今の話と関係ある?」
セリナは思わず笑った。
まったく、この男は。
けれど、ガルドの言葉が完全に的外れとも限らない。
魔物が何かを探していたのだとすれば、その目的は食料かもしれないし、住処かもしれない。
あるいは、もっと別の何かか。
今の段階では、想像することしかできなかった。
「まあ、ギルドが調べてくれるだろ。俺たちは俺たちで、できることをすればいいさ」
ガルドはあっさりと言った。
「……そうね」
セリナは手帳を閉じた。
今は目の前のことを大切にしよう。
そう思い直したときだった。
「……ん?」
ガルドが足を止めた。
「どうしたの?」
「何か聞こえないか?」
セリナも立ち止まり、耳を澄ませた。
山道の先から、何かがぶつかるような音が聞こえてくる。
続いて、男の叫び声。
「おい! 誰か助けてくれ!」
二人は顔を見合わせた。
「行ってみましょう!」
「ああ!」
セリナが駆け出し、ガルドも大剣を背負い直して後を追った。
山道を少し進んだ先で、二人は一台の荷馬車を見つけた。
荷馬車は道の端に傾き、片側の車輪が大きな岩と岩の間にはまり込んでいる。
馬は驚いて暴れ、荷台に積まれた木箱が今にも崩れ落ちそうだった。
その周囲では、三人の男たちが必死に馬車を支えている。
「もう少しだ! 押せ!」
「無理だ! びくともしねえ!」
「このままじゃ荷物が全部落ちちまうぞ!」
男たちの一人が、駆けつけた二人に気づいた。
「お、お前たち! 冒険者か!?」
「そうよ。何があったの?」
セリナが尋ねる。
「車輪が岩の間にはまっちまったんだ! しかも、荷台が傾いていて、このままじゃ荷物が落ちる!」
男は焦った様子で説明した。
荷台には木箱や大きな麻袋が積まれている。
見たところ、かなりの量だ。
馬車を引く馬も落ち着きを失っており、御者が必死になだめていた。
「なるほどな!」
ガルドは馬車の横へ回り込んだ。
「じゃあ、持ち上げればいいんだな!」
「いや、そんな簡単に――」
「よいしょっと!」
男が止めるより早く、ガルドは馬車の荷台に手をかけた。
そして、ぐっと腰を落とす。
次の瞬間。
傾いていた馬車が、ゆっくりと持ち上がった。
「……は?」
男たちの動きが止まった。
ガルドはそのまま馬車を支え、セリナに声をかける。
「セリナ! 車輪の下の岩をどかしてくれ!」
「えっ? あ、分かった!」
セリナはすぐに動いた。
車輪の周囲を確認し、邪魔になっている小さな岩を取り除いていく。
「もう少し! その石も!」
「これね!」
最後の岩が取り除かれる。
「よし、いけるぞ!」
ガルドは馬車をゆっくりと下ろした。
車輪が地面に戻り、馬車は元の安定した状態に戻った。
木箱も麻袋も、一つとして落ちていない。
「……終わったのか?」
男の一人が呆然とつぶやいた。
「これで大丈夫だ」
ガルドは手を払った。
「念のため、車輪も確認しておきましょう。軸が曲がっていたら危ないわ」
セリナが車輪と取り付け部分を調べる。
幸い、車輪に大きな損傷はなかった。
御者が馬を落ち着かせ、慎重に馬車を動かしてみる。
車輪は問題なく回り始めた。
「動いた! 助かったぞ!」
男たちから歓声が上がった。
「いやあ、本当にありがとう! まさか、あんな力持ちがいるとは思わなかった!」
「大したことないぞ。ちょっと持ち上げただけだしな!」
「ちょっと……?」
男たちは顔を見合わせた。
荷物を満載した馬車を、一人で持ち上げる。
どう考えても、普通の冒険者にできることではない。
しかし、ガルド本人はまったく気にしていなかった。
「ところで、何を運んでるんだ?」
ガルドは荷台をのぞき込んだ。
「食料だ。隣町で仕入れたものを、こっちの街まで運んでいるんだよ」
「食料!?」
ガルドの目が輝いた。
「肉もあるのか!?」
「に、肉?」
「どんな肉だ? うまいのか!?」
「ちょっと、ガルド!」
セリナが慌てて肩をつかんだ。
「助けた直後に荷物の中身を気にしないの!」
「いや、食料って聞いたら気になるだろ!」
「気になるけど、今は相手が困っていたところでしょう!」
「だから助けただろ?」
「そういう問題じゃないのよ……!」
男たちは二人のやり取りを見て、どっと笑った。
「はははっ! いいじゃないか。助けてもらったんだ、少しくらいなら礼をさせてくれ!」
そう言ったのは、荷馬車の持ち主らしい、恰幅のいい中年の男だった。
彼は荷台から小さな包みを取り出した。
「これは仕入れたばかりの干し肉だ。大したものじゃないが、受け取ってくれ」
「本当か!?」
ガルドは包みを受け取った。
「ありがとう! 助かった!」
「助けたのはこっちだろうに……」
男は苦笑した。
「俺は商人のダリオだ。食料品を扱っている。君たちは冒険者か?」
「そうよ。私はセリナ。こっちはガルド」
「よろしくな!」
「こちらこそ。いやあ、今日は本当に運がよかった」
ダリオは馬車を見ながら、ほっと息を吐いた。
「もしこのまま荷物が落ちていたら、商売にならないところだった。車輪まで壊れていたら、修理にも時間がかかるしな」
「それなら、よかったわ」
セリナが微笑む。
ダリオは二人を交互に見てから、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、君たちはこの辺りに何か用事でも?」
「東の山道を調べていたの。最近、森の近くで魔物の動きがおかしいでしょう?」
「ああ、その話か……」
ダリオの表情が少し曇った。
「実は、俺も気になっていたんだ」
「何か見たのか?」
ガルドが尋ねる。
「見たというより、商売仲間から聞いた話だ。最近、この辺りを通る商人の間で、妙な噂が広がっている」
「妙な噂?」
「森の奥から、大きな音が聞こえるらしい。それも、一度や二度じゃない。夜になると地面が揺れるほどだって話だ」
セリナとガルドは顔を見合わせた。
やはり、あの地響きは気のせいではなかったらしい。
「それと、もう一つ」
ダリオは声を少し落とした。
「古い街道の近くで、黒い影を見たって話もある。遠くからだったから、何なのかは分からなかったそうだが……」
「黒い影……」
セリナがつぶやいた。
昨日見た、あの巨大な魔物。
やはり、あの辺りを移動しているのだろうか。
「ただの見間違いかもしれないけどな。商人たちも、危険な場所には近づかないようにしている」
「教えてくれてありがとう。ギルドにも報告しておくわ」
「そうしてくれると助かる。俺たち商人には、魔物と戦う力なんてないからな」
ダリオは肩をすくめた。
それから、馬車の御者に声をかける。
「よし、そろそろ出発しよう。あまり遅くなると、街に着く前に日が暮れちまう」
御者がうなずき、馬の手綱を握った。
「冒険者のお二人、本当にありがとう! また街で会ったら声をかけてくれ!」
「おう! 気をつけてな!」
「道中、気をつけてね」
二人は手を振り、荷馬車を見送った。
馬車はゆっくりと動き出し、やがて街道の向こうへ消えていった。
「……思わぬところで情報が手に入ったわね」
セリナが言った。
「ああ。黒い魔物、やっぱりあの辺りにいるんだな」
「そうかもしれない。でも、商人が見た影が同じ魔物だとは限らないわ」
「まあ、そうだな」
ガルドはうなずいた。
そして、手に持った干し肉の包みを見つめる。
「……なあ、セリナ」
「何?」
「これ、いつ食べる?」
「今じゃない?」
「いいのか!?」
「助けたお礼にもらったんだから、食べていいでしょう?」
「よっしゃあ!」
ガルドはさっそく包みを開けた。
中には、香ばしい匂いのする干し肉が入っている。
一口かじると、噛むほどに肉のうまみが広がった。
「うまい!」
「本当? 私にも少しちょうだい」
「もちろん!」
ガルドは包みを差し出した。
セリナも一切れ受け取り、口に運ぶ。
「……うん、おいしいわね」
「だろ!」
ガルドは満足そうに笑った。
こうして二人は、街へ向かう道の途中で小さな休憩を取ることになった。
森の異変は、まだ解決していない。
古い岩壁の向こうに何があるのかも分からない。
けれど、冒険は森の中だけで起きるわけではない。
街道で困っている人を助けることも、思わぬ相手から話を聞くことも、冒険者の仕事の一つなのだ。
「よし、腹も落ち着いたし、帰るか!」
「そうね。今日はずいぶん寄り道したけど」
「寄り道も冒険だろ!」
「……ふふっ。そうかもしれないわね」
二人は再び歩き始めた。
その先には、いつもの街が待っている。
そして、彼らがまだ知らない新しい出会いも――。
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