ガルドは宿屋の食堂で、いつも以上に真剣な顔をしていた。
「……よし。準備は完璧だ」
「本当に?」
向かいに座るセリナが、疑わしそうに尋ねた。
「ああ! 剣よし、水よし、食料よし!」
ガルドは荷物を一つずつ指さして確認する。
そのたびに、背負った袋から乾燥肉の袋が顔をのぞかせた。
「食料、ちょっと多くない?」
「森の調査は大変だからな。腹が減ったら力が出ないだろ?」
「それはそうだけど、昨日も言ったわよね。今回は日帰りの予定だって」
「分かってる! これは念のためだ!」
「……まあ、いいわ。ちゃんと自分で持っていくならね」
セリナはあきらめたように笑った。
今日は北の森の東側を調べる。
昨日ギルドに届いた情報によれば、山道の近くで黒い鱗を持つ巨大な魔物が目撃されたらしい。
二人が森で拾った鱗と、何か関係がある可能性は高かった。
「それじゃあ、出発しましょう」
「おう!」
二人は宿屋を出て、北の森へと向かった。
町を出てからしばらく歩くと、街道は次第に細くなり、やがて東側の山道へと分かれていった。
周囲には背の高い木々が増え、足元には大小さまざまな岩が転がっている。
「この先が、目撃情報のあった場所ね」
セリナは地図を確認しながら言った。
「森の中を通るより、こっちの方が歩きにくいな」
ガルドは大きな岩をまたぎながら進んでいた。
「足元に気をつけて。岩が崩れることもあるから」
「分かった!」
返事をした直後、ガルドは目の前に転がっていた石を蹴ってしまった。
石は斜面を転がり、少し離れた岩にぶつかって止まった。
「……ガルド」
「悪い!」
「まだ何も言ってないでしょう?」
「その顔は、何か言おうとしてただろ?」
セリナは思わず吹き出した。
「ふふっ。そうね。次から気をつけて」
「ああ!」
二人は笑いながらも、周囲への警戒を怠らずに進んだ。
やがて、セリナが足を止めた。
「……待って」
彼女は片手を上げ、ガルドに合図した。
「どうした?」
「音がするわ」
二人は耳を澄ませた。
ドン……。
少し間を置いて、再び重い音が響く。
ドン……。
何かが地面を踏みしめるような音だった。
そのたびに、近くの木々の枝がかすかに揺れている。
「昨日の音と似てるな」
「ええ。かなり近いわ」
セリナは弓を手に取り、音のする方向を慎重に探った。
その先には、岩場に囲まれた開けた場所がある。
木々の隙間から、その一部が見えた。
「……あそこね」
二人は足音を立てないように進み、太い木の陰から開けた場所をのぞき込んだ。
そして――。
「……でかいな」
ガルドが思わずつぶやいた。
そこには、巨大な魔物がいた。
全身を黒い鱗に覆われた、四足歩行の魔物。
長い尾を持ち、背中には鋭く突き出した突起が並んでいる。
頭部には大きな角があり、太い脚が地面を踏みしめるたび、周囲の小石が震えていた。
体の大きさは、これまで二人が戦った魔物とは比べものにならない。
ホーンウルフも、グランドファングも、ブラウンホーンも。
あの巨体の前では、小さく見えてしまうほどだった。
「……あれが、黒い鱗の魔物」
セリナは息をのんだ。
遠目でも分かる。
あの鱗は、普通の魔物のものではない。
そして、あの巨体が動けば、森の地面が揺れるのも無理はなかった。
「なあ、セリナ」
「何?」
「あいつ、強そうだな」
「……ええ。間違いなくね」
セリナは弓を握り直した。
だが、矢を放つつもりはなかった。
今は戦うためではなく、調査のために来ている。
相手の正体も、強さも、分かっていないのだ。
「今は観察だけよ。絶対に近づかないで」
「分かってる」
ガルドも真剣な顔でうなずいた。
珍しく、肉のことも口にしなかった。
黒い魔物は、開けた場所をゆっくりと歩いていた。
時折、地面に鼻先を近づけ、何かを探すように周囲をうかがっている。
やがて、魔物は大きな岩の前で足を止めた。
その岩には、深い傷がいくつも刻まれていた。
まるで、鋭い爪で何度も引っかいたような跡だった。
「……あの傷」
セリナが小さくつぶやいた。
「どうした?」
「昨日見た木の傷と似ているわ。もしかしたら、あの魔物がつけたものなのかもしれない」
「じゃあ、森の中で暴れてたのは、あいつか?」
「可能性はあるわね。でも、まだ断定はできない」
そのとき、黒い魔物が突然顔を上げた。
ピタリと動きを止め、ゆっくりと首を巡らせる。
周囲を探るような動きだった。
セリナは息を止めた。
「……気づかれた?」
ガルドも大剣の柄に手をかける。
黒い魔物の視線が、二人の隠れている木の近くを通り過ぎた。
次の瞬間。
魔物が低くうなった。
グルルルル……。
空気が震えるような、重い唸り声だった。
近くの小鳥たちが、一斉に飛び立つ。
魔物はしばらく周囲を警戒していたが、やがて興味を失ったように歩き始めた。
その巨体が岩場の向こうへ消えていく。
セリナは、ようやく息を吐いた。
「……行ったわね」
「ああ」
ガルドは魔物が消えた方向を見つめていた。
その表情には、いつもの無邪気さとは違うものがあった。
強い相手を前にしたときの、純粋な興味。
そして、少しだけ高まった緊張感。
「なあ、セリナ」
「何?」
「あいつと戦ったら、どれくらい強いんだろうな」
「戦うことを考えるのは、まだ早いわよ」
「分かってる。でも、気になるだろ?」
「……あなたらしいわね」
セリナは小さく笑った。
ただし、心の中では別のことを考えていた。
あの魔物は、ただ森の中を歩き回っているだけなのだろうか。
それとも、何かを探しているのか。
そして、ほかの魔物たちが森から逃げている原因は、本当にあの魔物なのだろうか。
まだ、答えは出ていない。
二人は黒い魔物が消えた方向を確認し、少し離れた場所まで移動した。
そこで、セリナが地面を調べ始める。
「やっぱり、足跡が残っているわ」
地面には、深く刻まれた巨大な足跡が続いていた。
足跡は山道の奥へ向かっている。
その周囲には、小さな魔物の足跡もあった。
ただし、それらは黒い魔物の足跡とは反対方向へ続いていた。
「また逃げてるのか?」
「そうみたいね。あの魔物を恐れているのかもしれない」
「でも、あいつは何をしてるんだ?」
「分からないわ。何かを探しているようにも見えたけれど……」
セリナは地面の跡を見つめた。
黒い魔物が立ち止まっていた岩。
そこに刻まれた傷。
そして、山道の奥へと続く足跡。
すべてがつながっているようで、肝心なところが分からない。
「今日はここまでにしましょう。十分な情報は得られたわ」
「もう帰るのか?」
「ええ。あれほどの魔物がいると分かった以上、これ以上の調査は危険よ。まずはギルドに報告しないと」
「……分かった」
ガルドはうなずいた。
そして、歩き出す前にもう一度、黒い魔物が消えた方向を振り返った。
あの巨体。
黒い鱗。
そして、地面を揺らすほどの足音。
今まで戦ってきた魔物とは、明らかに違う存在だった。
「……また会うことになるかもな」
ガルドがつぶやいた。
「え?」
「いや、なんでもない」
セリナは少し不思議そうにしたが、それ以上は尋ねなかった。
二人は森を離れ、町へ戻ることにした。
まずはギルドに報告する。
それから、黒い魔物について詳しく調べる必要があるだろう。
正体も、目的も、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、あの魔物がこの森の異変に深く関わっている可能性が高いということだった。
そして、二人が森を離れたあと。
山道の奥では、黒い巨体が再び動き始めていた。
その進む先には、古い岩壁がそびえ立っている。
黒い魔物は岩壁の前で足を止め、低くうなった。
まるで、その向こうに何かを感じ取ったかのように。
ゴゴゴゴ……。
森の奥に、再び重い音が響いた。
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